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2004年12月

2004年12月31日 (金)

恒例の・・・

まずは太宰府天満宮へお参り。で、毎年恒例の「年忘れ脚本大会」へ。

この日記を初めて来年で4年目になるが大晦日はいつもこうだなぁ・・・。そう言えば初演の「翼をくださいっ!」も、暮れから正月で書き上げたんだった。もしかしてこれから先もずっとこうなのかな。

一度ぐらい「暮れから新春は海外でのんびり」なんてやってみたいぞ・・・とぼやきつつ脚本大会スタート。

2004年12月30日 (木)

まずは会うこと!

「必殺朝帰り」で自宅へ。今日は別の会合があるので風呂に入って目を覚まして家を出る。今日のメンツも忙しい人ばかり。「何とか年内に一度集まろう」と話していたのだが、ようやく今日実現。でも、後1日しか今年が残ってないぞ。まあ会えただけでも良しとするか。

一人で考えていても始まらない。まずはこうして会ってネットワークをひろげ、「ちょっと無理かな」ぐらいの夢を話して、その思いを共有する。この「共有する」ってのが大事で、共有さえ出来てしまえば大抵の事は実現する・・・と思う。

2004年12月29日 (水)

FMでDVDの宣伝

夕方から岩田屋にあるクロスFMのスタジオへ。パーソナリティーのトギー氏は北九州にいた頃の知り合い。約7年ぶりぐらいの再会なので、まずは当時の話からになった。で、「お互い頑張ってるよなー」とちょっとしみじみ。「今度は3月公演の告知で出してね」と約束して15分の放送が終了。

夜は熊本へ移動してきららの忘年会に参加。「今年は「ほね屋」でずっと一緒に公演をしたよねぇ」と、これまたしみじみ。そのまま朝まで飲んで、忘年会初参加のアラマッキーの車で一緒に福岡に戻る。

2004年12月28日 (火)

2007年まで・・・

「今後一緒に組んでいきたい」と思っているメンツで打ち合わせ。それぞれバリバリな人なので、やりたい事が次々出てくる。で、試しにスケジュールを組んでみたら、すぐに2007年の12月まで埋まってしまった。「まだ2004年の12月なのになぁ・・・」とそのスケジュールを見て大笑い。

2007年12月の企画は、夢みたいな内容だが、出来そうな気もする。うん、そこに向けて頑張っていくぞ・・・と言いつつ、まずは3月公演の脚本か。そうだよな、目の前の事からコツコツ行かないと。

ショッカーだって、「世界征服」と言いながら、まずは幼稚園のバスジャックから始めるんだし。

2004年12月27日 (月)

DVD用映像の試写

午前中ちょっと仮眠を取って午後から西鉄エージェンシーでDVDの打ち合わせ。メニュー画面のデザイン、構成、特典映像の内容などについて話し合う。まだ編集途中だが、公演の映像も見せてもらう。その後はDVDのプロモーションで新聞社へ。

パッケージデザインとか、まだまだ決めないといけない事はたくさんあるが「ギンギラ初DVD」なのでワクワクする。

2004年12月26日 (日)

西鉄ホールで公演中だけど

実は、今年中にやらないといけない事がまだかなり残っている。今日は朝からひたすらお仕事。もう仕事しまくり。やばいな。絶対「まだ残していたのか!」と怒られる。で、朝から泣きそうになりながら片づけていく。まず「昨日締め切り」の原稿を書いて(「はぁー昨日ぉ?」って、さっそく怒りたくなるでしょう?ほんとご免なさい)。あーこれ以上は絶対怒られるので書けない・・・。夜は日曜だというのに打ち合わせをさせてもらって・・・全て年内に終わるんだろうか。

幸いなのは「28日で仕事納めです」なんて方がいない事。後2日だったら絶対無理だもん。これで、今年も大晦日も元旦も無い事が確定。まあいいか、どうせ今年も「年忘れ脚本大会(もちろん参加はボク一人)」の予定だったし。

何とか11時過ぎに打ち合わせを終わらせて打ち上げに合流。昨日に続き飲みまくり。ゲスト3人が顔を合わせて飲むのは初めてだったので今後の事とか話す。2次会で大騒ぎして結局帰ったのは3時過ぎ。で、タクシーで帰っていたら、カガッチと田坂君が博多駅で朝まで時間をつぶそうとしていた事がわかり、Uターンして拾って家に泊める。でも、「家で休んでいけ」と言いながら、2人で朝まで色々と話し込んでしまった。悪いことしたかなぁ・・・。

2004年12月25日 (土)

今日はボクが出演する日

演じたのは、芝居が始まってすぐに出てくる「インチキカメラマン」と、途中で出る「売れない芸人」の2役。自前で用意したインチキな衣装に身を包み、短いながらも存分に暴れさせてもらう。あー楽しかった。芝居の後半は出番がないので、こっそり客席の後ろで観る。会場全体が芝居の空気で包まれているのがとても気持ちよかった。今日も泣けたよ。

終わった後はホールで初日打ち上げ。それぞれがやらかしたハプニング話で大いに盛り上がる。ボクも調子に乗ってかなり飲んでしまった。

2004年12月24日 (金)

「すぎのとを」プレビュー公演

明日からの公演を前に、今日は関係者へのプレビュー公演。ボクも客席で観る。おかしくて切ない素敵な芝居だった。不覚にもボクは泣いてしまったよ。

とにかく、女優3人が存分にやり倒しているのが観ていて気持ちいい。同じ役者として羨ましいぐらい。「ちょっとしか登場しない自分が悔しぞ」って、終わった後に楽屋で話したら「だって男なんだから仕方ないでしょう」と笑われてしまった。

いよいよ明日から「すぎのとを」の本番。女優3人が全力をぶつけて演じている姿は必見だ!

2004年12月23日 (木)

4日弟の生涯

只今昼夜逆転中でひたすら脚本。元の脚本を「残す場面」と「書き換える場面」に分けて、新たな場面に差し替えていく。書き直したい方向は決まっているが調子に乗って「元の良い部分」を壊さないようにしなければ。

というわけで今日もYSー11の話。この飛行機が量産に入ったのは1965年、ボクも同じ1965年に生まれているので、YSー11とボクは「ほぼ同じ歳」ということになる。さらに「JA8640」という機体はボクの誕生日と4日しか違わない(ボクは4月11日、「JA8640」は4月15日)。

ボクより4日弟になる「JA8640」のたどった運命も資料でわかっている。まず日本国内航空に引き渡されて「真珠」と命名。その後は日本エアシステムでしばらく飛んで海外へ。いくつもの会社を渡り歩きながら飛び続けるも、ついに1990年に用途廃止。最後はラスベガスの空港で解体された。

この「4日弟」は25年の生涯だったという事になる。4日弟はどんな気持ちで最後を迎えたのだろう。「もう十分」だろうか、それとも「まだ飛べるのに」だろうか・・・。 

2004年12月22日 (水)

海洋堂製のおまけを見ながら

タイムスリップグリコについていた「YSー11」のおまけを眺めながら脚本の書き直しを進めている。さすが海洋堂だけあって作りが細かい。ちゃんと機体には「JA8744」という機種番号もついているし。

ちなみに「JA8744」というのは、資料によると1965年の8月に初飛行し、全日空が所有していた機体。その後エアーニッポンに所有が変わり、国内での役割が終わった後はプーケット航空の所有となり、2004年の3月まで登録が確認されている。

このおまけの「JA8744」のように、YSー11という飛行機は、国内大手からはじまり、離島を結ぶ小さな航空会社にうつり、最後はアジアの会社に売られて「寿命が尽きるまで飛ぶ」という運命をたどる事が多い。

「国内でスクラップになるくらいなら、外国でもどこでも行って、力尽きるまで飛んでやるんだ!」と言ってるようで、たまらなくなってしまう。

大塚ムネトの不定期日記