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2008年9月

2008年9月28日 (日)

通し稽古が続く

連日通し稽古が続いている。今日はBキャストでの通し。全体の時間は1時間48分。Aパートの通し稽古より4分近く短い。キャストの呼吸の違いが積み重なっての4分。この差が楽しい。何しろ今回は全部で6パターン。演出していて本当に面白い。

あるチームでぶつかった壁に、別のチームの違う解釈がキッカケで答えが見つかったり、それぞれの良いところを合体して一番良い答えが出たりと、日々変化している。

今回は1ヶ月間も作品と向き合えるので、変化を存分に楽しみたいと思っている。

2008年9月25日 (木)

パンフ最終チェック

朝10時からピクニックで販売用パンフ原稿のチェック。午後からは印刷なので、最後の確認という緊張感。どのページも苦労して作ったので、いよいよかと嬉しくなる。

今回も30ページオールカラーで読み応えは満点ですよ!

昼からはそのまま事務所で取材。連日取材があるので本当にありがたい。少しでも多くの方に公演を知ってもらえればと力が入る。

夜は稽古。明日の通しに向けて細かな部分を確認。

2008年9月18日 (木)

今日を乗り切れば・・

昨日で取材はいったん終了。あとは1ヶ月公演中に来福しての取材があるとのこと。今朝の飛行機で福岡に戻り、昼からかぶりモノ作業。そして夜は稽古。自分がいない間に役者たち出していた課題などを確認。

この2日間ひたすら喋るという「頭脳系の疲れ」がたまっていたが、今日は存分に体を動かしたので、頭と体がバランスよく疲れたのではないかと思う。なので、疲れているが心地よい。きっと今週を乗り切った安堵感もあるかな。

2008年9月17日 (水)

初心

昨日と今日の2日間は取材で喋りっぱなし。制作陣は「取材が多くてすみません」と気遣ってくれるが、全然辛くない。そりゃあ1日喋ってるから疲れてはいるけど平気。こうして取材してもらえうのは本当にありがたいこと。

自分が芝居を始めてすぐの頃、あっちこっちにリリースを送っても全然どこからも取材が来なかった。唯一、シティ情報ふくおかだけが、告知欄に載せてくれた。それを思えば、自分の公演のことを聞きに来てくれるなんて感謝感謝だ。

2008年9月15日 (月)

怒濤の3日間

始発で東京へ。朝から夜までポンキッキ収録。夜は明日からの「BORN TO RUN情宣活動」についてのスケジュール確認など。10月公演と同時進行で11月の準備も進んでいて、明日と明後日の2日間はアミューズで取材を受けることになっているのだ。今のところ全部で12社の予定。一日6社でそれぞれ1時間ぐらいなので、朝から夜までみっちり・・・。

速攻ホテルにチェックインしてすぐに寝た

2008年9月14日 (日)

今週を乗り切れば

朝からトンコツTV収録。初回からずっと一緒の深町さんも、前を走る先輩の一人。番組司会、夏の定番となったライブのプロデュースなどバリバリ活躍しているが、番組で受ける印象通り、普段も自然体でかっこいい。河原さんもそうだが、「自分のやりたいことを実現するル-ル」と「世の中のルール」の折り合いをつけているのが本当にかっこいいと思う。

番組収録は夕方で終了。いつもは打ち上げの飲み会だが、今日は稽古。番組スタッフに打ち上げ欠席を詫びて稽古場へ。明日から3日間東京で留守にするので、その間の課題などをそれぞれに出す。

2008年9月12日 (金)

挑戦

「翼」に続いて今回も有料パンフを作ることになった。公演記録、稽古風景、キャスト紹介、古写真で振り返る福博の街(7月に上演した「女ビルの一生」で懐かしい画像を提供してくれた益田さんにお願いしたが、読み応えがある素晴らしいページに仕上がっている。)などなど、今回も盛りだくさん。もちろん対談コーナーもあり。

前回の松本零士先生に続き、今回対談をお願いしたのは一風堂の河原さん。いつもながら熱く「これまでのこと」そして「これからのこと」を語ってくれた。今回の公演テーマが挑戦だと話したら、河原さんが「オレの今年の目標も挑戦なんだよ」と手帳を開いて見せてくれた。そこにはデッカイ文字で「挑戦」とある。そして「挑戦の挑という字は「手へん」に「兆し」と書く。自分の手で兆しを作るという意味なんだよ。」と河原さん。いやグッと来たなぁ・・・。ボクの前を走る先輩の熱いメッセージをぜひ読んで欲しい。

河原さん、忙しい時に対談をOKしてくれてありがとうございました。

2008年9月 2日 (火)

必死

以前書いたことだけど、思いもかけない死を知らされてへこんでいた時に、行きつけのかりん塔の大将からボクに手紙が届いた。そこには筆でこう書かれていた。

「人は必ずいつかは死ぬ。だから必死なのだ。」

自分がやるべき事を存分にやらねばと思う。

2008年9月 1日 (月)

マヤさんを偲んで

手元に「福岡2001」という地元経済誌がある。この中でマヤさんは、ギンギラが1999年に初めて西鉄ホールに進出した公演を取り上げてくれた。早い時期から公の場でギンギラを評価してくれた方だった。当時「地元ネタなんて」と言われていたボクは、自分の作品が褒めてもらえたことが素直に嬉しかった。ボクはマヤさんにお礼を言った。このことがキッカケでボクはマヤさんと話をするようになった。

公演前の折り込みでいつも姿を見かけたボクは「ネットで活動すれば、もっと楽では」と聞いたことがある。マヤさんは「ネットで簡単に発表するのではなく、自分で記事を書いて、印刷して、劇場に折り込みに行く。凄く大変だけど、これがボクの表現活動なんだ」と笑いながら話してくれた。地方にありがちな「凝り固まった原理主義的な人」と違い、幅広く色々な芝居を語る人だった。「いいモノはいい、悪いモノは悪い」ときちんと語る人だった。昔、ある企画芝居がダメダメだった時も、周りが遠慮する中、マヤさんだけは堂々と批評を発表していた。見事な正論だった。

サブカルからクラッシック音楽までとにかく博学の人だった。

つい自分の公演で忙しいボクに、「飛ぶ劇は凄い」「あなピは面白い」「熊本のきららは観た方がいいよ」など、マヤさんは自分が観た芝居の話をしてくれた。ボクがきららに客演したのもマヤさんが勧めてくれたのがキッカケ。

ウチで「オールナイト映画大会」を開催し、チェコのアートアニメ、ゴジラ、昔の東映マンガなどを上映して一晩中騒いだこともある。

振り返れば絶妙な距離感だったなと思う。ボクは表現する側、マヤさんは批評する側。なので決してべったりというわけではなく、たまにメールのやり取りをするのが基本だった。偶然別の芝居であったりするとお茶をして芝居の話をし、また数ヶ月たってギンギラの公演後に楽屋で話す・・・みたいな感じ。公演のあとはいつも「面白スクラップDVD」をお土産に持ってきてくれていた。これがまた見事に面白いネタばかり。共通の友人でもある「きららの池田さん」もたくさんDVDを貰っているらしい。今度ぜひ、マヤさんを偲んで「マヤさんがくれたDVD上映会」をやれればと思っている。おバカな映像を見てみんなが大笑いする様子をきっと喜んでくれるはず。

マヤさんを偲んでやりたいことは色々あるが、まずはギンギラ1ヶ月公演のロビーに漂流画報のコーナーを作ろうと計画している。マヤさんがこだわった漂流画報のこと、ギンギラはずいぶん励まされたことを、会場のお客様にぜひ知ってもらいたいと思っている。

大塚ムネトの不定期日記