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2009年8月

2009年8月19日 (水)

大阪キャンペーン2日目

午前中ワークショップ(東大阪とは別)。やはりギンギラの映像を見てから中身のことを話す。地元の役者さんだけでなく、ギンギラのお客様、かぶりモノ作家の方など、思わぬ嬉しい方が参加してくれて楽しかった。

終わった後はテレビの取材。今日も相手はノリがいい方。さすが大阪と言うことか。

午後から東大阪ワークショップ2日目。急なお願いにもかかわらず、上田合金という「鋳物工場」が取材を引き受けてくれた。この上田合金というのは、銅鐸や銅鏡などの国宝のレプリカ作りを頼まれるほどの高い技術力を誇る工場。でも社長の上田さんは、茶目っ気たっぷりの大阪のおっちゃんという感じ。このおっちゃんが「どや、これ国宝やで。ほな2000年前の音を聞かせたるわ」と自分が再現したレプリカの銅鐸を鳴らしてくれるのだ。

いかにも町工場という感じの場所で響く2000年前の音。

「これぞ現場ならではの想像を超えた体験」に、たまらなくワクワクする。1200度で燃える炉や、型どりする砂、木型など一通り見せてもらう間も、「砂は生き物やで」とか、もうそのままセリフになりそうなコメントが次々に飛び出す。熱気で汗だくになりながら上田さんの言葉や工場で気がついたことを必死にメモる。約1時間の取材だったがとても充実した時間だった。「またいつでも来いや」と、鉄の粉まみれの上田さんの笑顔が忘れられない。取材のあとは会場に戻ってホワイトボードに気がついたことを項目ごとにまとめていく。ボクの手法を教えながら、学生達に「上田合金さん」と言うキャラ作りに挑戦してもらった。

なんだか強烈に、東大阪の芝居を作りたくなったよ。だって今日会った上田さんのような方が、まだまだたくさんいる街なんだもの。全部の方に会って話を聞きたい。

2日間のワークのあとは読売新聞の取材。最後のタウン誌の取材で、ライターさんが大王と一緒にやった芝居を観た方だとわかり嬉しくなる。さらに嬉しかったのは、夜の街で写真を撮影中に声をかけられたこと。何とギンギラファンの方と出会ったのだ。なんたる偶然!ちょっと立ち話をして大阪公演での再会を約束したよ。

最終のひかりで福岡へ。一息つく間もなく明日からは仙台キャンペーン。

2009年8月18日 (火)

全国ツアーキャンペーン開始!大阪その1

朝7時12分の新幹線で大阪へ。毎日新聞の取材を受けて、ABCというテレビ局での「大阪・神戸合同記者会見」。全部で10社以上の記者さんがいてちょっと緊張した。

次は東大阪へ移動して昼からワークショップ。東大阪というのは町工場がたくさん集まる「モノ作り」にこだわった街で、地元の大学生による東大阪を舞台にした芝居の準備が進んでいるのだ。ボクは芝居作りのアドバイスとして今日と明日の2日間ワークショップをすることになっている。今日はギンギラの映像を見て、モノがモノ語る芝居の世界を話す。話の中で「学生達がまだ一度も現場に行っていない」と言うことがわかったので、明日のワークショップの予定を急遽変更して「工場取材」に。現場に行って、取材から始まるボクの芝居作りを見てもらうのが一番はやいと思ったのだ。

ワークショップのあとは再びテレビ局に戻って夕方ニュースへの出演収録。相手の男性アナがとてもノリがよく芝居好きな方だったのでありがたかった。

1日目が終了。大阪の担当の方と美味しいさかなを食べてホテルへ。

ホテルでは今日一日移動中に見かけた街のあれこれをネットで検索。何と言っても、博多と同じ2011年に開業するJR大阪駅のことが気になる。大丸、三越、阪急と、福岡に縁がある方ばかりだし。これはツアー各地の流通戦争が書けるかもしれない。

2009年8月17日 (月)

次へ!次へ!

午前中、アクティブの事務所で来年の「長谷川先生との企画」について打ち合わせ。

午後からは某映画制作会社の方と会う。昨日の最終公演、ポンキッキのひかり侍シリーズも観てくれていて、映像で何か出来ないかとの相談話。

どれも準備を重ねてようやく見えてきた楽しみな話。

毎年スタートの3カ年計画を頑張ってきた甲斐があった。とはいえ、まだまだ計画の途中なので油断は出来ないのだけど。

2009年8月16日 (日)

64年前のあの夏と同じように

公演最終日。当日券も売り切れ会場は満員。今日は公演だけでなく、終わった後には震電をバラバラにするイベントもある。時空を超えて64年前とつながる日。なので朝から気合が入りまくる。2階の展示室の震電ともいつも以上に長く一緒に過ごし、いよいよ最終公演。

いつも以上にひとつひとつの場面を丁寧に演じることを心がけ、震電の想いを漏らさずお客様に伝えることに集中。

そして終演後はいよいよバラバラにすることに。2階の会場は、公演を観てくれたお客様だけでなく、わざわざ駆けつけてくれた方もいて予想以上のにぎわい。たくさんのお客様に見守られて、きっと震電も嬉しかったと思う。

その一人一人にキャストがはさみで切った震電のパーツを渡していく。渡すのは学徒動員で震電を作っていた本郷さん(ボクが演じたキャラのモデルになった方)。その横でボクはお礼を言いながら握手。キャラ達との記念写真大会も開催していたので各所で写真をとる方々が。

今日、64年前のあの夏の日と同じように震電はバラバラになったけど、でも消えるのではない。それぞれのお客様が震電のパーツと共に物語も持ち帰ってくれている。きっとそれぞれが、また別の方に話してくれることだろう。ネットのブログに書いてくれる方もいるだろう。

そうして震電の想いを知る人が増えるのだ。

2009年8月15日 (土)

朝の儀式みたいな

会場に着くとまずは2階の展示室へ行き、震電に話しかけている(もちろん心の中でだよ)。自分たちで作ったモノだから「元々の魂」はこもっていないかもしれないけど、悲しいぐらいに圧倒的な存在感なので、そして、明日はバラバラにされてしまう運命なので、話しかけずにはいられないのだ。

そして公演。今日は終戦の日という事もありチケットもすぐに売り切れていた。今日のお客様は、15日という日を感じるために来てくれたのだと思う。

モノの想いを語ると言うことは、それに関わってきた「当時の人の想い」を伝えると言うこと。

今日も全力で想いを伝えた。

2009年8月14日 (金)

震電がバラバラにされるまで「あと2日」

実は今日の昼公演は、席にかなり余裕がある日だった。初日の最後の挨拶で「13,14はまだ余裕がありますので」と正直に話し、口コミのお願いをしたところ、何と一番危ぶまれていた今日の昼公演が立ち見で一杯になった。もちろん、ボクら役者、制作陣も必死に情宣をしていたが、回収したアンケートを観ると、「すすめられて来た」と言う方が多く、いつもながらギンギラはお客様に支えられているなぁと感激する。

ただ、せっかく来てくれたのに立ち見だったお客様に申し訳なくて・・・。たくさんのご来場、本当にありがとうございました。

公演終了後は、2階ギャラリーの震電と記念撮影。まずは、芝居が出来るキッカケとなった震電プロジェクトの生みの親「中ハシさん」、ボクが演じているキャラのモデルとなった学徒動員で震電を造った「本郷さん」、九州飛行機の流れをくむ渡辺鉄工の「渡辺社長」など、関係者全員での記念撮影から。次にキャラ軍団と震電の撮影。「中村タクジ演じる震電と実物大の震電の2ショット」はグッと来る素敵な写真になりそう。撮影した画像はHPで公開する予定なのでお楽しみに。

中島荘太演じる「九州飛行機の社長」は、渡辺社長の曾おじいちゃんがモデルなので、九州飛行機キャラ達の写真には渡辺社長にも御一緒してもらった。時空を超えてモノの魂と今を支える人の想いが一緒になった写真なんて、これぞギンギラならではと思う。

明日15日は終戦の日。そして明後日の16日は、震電がバラバラにされた運命の日。64年前の「あの夏の日」と同じように、16日の最終公演のあとは2階ギャラリーの実物大の震電をバラバラにし、小さく分けた写真を会場のお客様に配るイベントを行う。イベント開催は16時半から。入場無料なのでお時間がある方は是非。

震電がバラバラにされた「あの夏の日」まで、あと2日。

2009年8月 2日 (日)

チラシとしてのあり方にこだわった漂流画報のこと

ボクはマヤさんに「HPで活動した方が簡単では」と聞いたことがある。その時マヤさんは、「自分は劇場に来たお客様に手にとってもらいたい。劇場で出会うのが良いんだ」と、「チラシとしてのあり方」に、こだわりを語ってくれていた。

この日記でもよく書いているが、ボクはチラシというのは、「表現者からお客様への手紙」だと考えている。それも、作品を知って欲しい、劇場に来て欲しいという切なる願いがこもった「恋文」。

だから、マヤさんの漂流画報は、折込というスタイルにこだわり、様々な作品を紹介する、表現者とお客様の「恋愛仲介所」みたいなモノだと感じていた(これはボクの感じ方なので人によっては違うかもしれないけど)。とてもありがたい存在だった。励みになっていた演劇人は多いと思う。だからこそ画祭も実現したのだ。

ネットで簡単に活動出来るのに、手書き、印刷、折込(もちろん全て自分1人の力)にこだわったマヤさん。見事なイラスト、劇中歌があれば楽譜をおこし、作者がこだわったであろう部分への細かなツッコミなど、画報は立派な作品だったと思う。

ボクのこの日記も含め、ネットでの表現は書き込む環境さえあれば誰でも出来る。一方的な思いこみで誰かを傷つけないように気をつけなければ。

2009年8月 1日 (土)

漂流画祭とあとの祭り

今回のイベントは、予算、各人のスケジュールなど、「やりたい気持ちはあるけれど・・」という感じで、なかなか実現出来ず、じつは、何度も中止になりかけていた。そんな時に、「たとえ、どんな厳しい状況でもやるよ」と言ってくれたのが、非売れの田坂君ときららの池田さんだった。そして、「会場はウチを使えばいい」と協力を申し出てくれたのが大博多ホールだった。チラシの作成、HPの立ち上げは非売れのメンバーが、自分たちの本公演前にもかかわらず、ボランティアで頑張ってくれた。

何と言っても嬉しかったのは、中村君、田坂君、池田さんが「マヤさんのために新作」を 書いてくれたこと。参加した演劇人、関係者も、全て気持ち(つまりボランティアで)集まってくれたメンバーだった。

入場料も、最低限必要な経費に全て使われ利益もない。効率的でないからこそ、何度も中止になりかけた企画で、ただひたすら「マヤさんが喜んでくれる事をやろう」と言う気持ちだけで集まったメンバーによる、心意気の企画だった。

せめて、画祭の出会いが、それぞれの今後の活動に刺激になってくれればいいのだけれど。

しかし、実現出来て本当によかった。マヤさんの訃報を突然聞いて、どうにも気持ちの整理がつかないままだったが、どうすることも出来なかった想いを、こうしてたくさんの人と共有し、偲ぶことで、いまさらだけど、「マヤさんと別れのひととき」を過ごせたような・・そんな気がしている。あとの祭りで、マンドリンの演奏を聞きながら、「そうか、このイベントは、マヤさんのことをたくさんの方に知ってもらうということだけでなく、持って行き場のなかった想いを浄化させてくれたんだなぁ」と。

マンドリン演奏中に、後ろの窓に大濠の花火が見えたのも印象に残っている。画祭で大騒ぎをしたあと、偶然による「音楽と花火のコラボ」という美しい締めくくりに、ボクは思わず泣けてしまった。

あの瞬間、会場全体でしみじみと過ごせたように思う。出演者、そして観客として参加してくれた皆様、ありがとうございました。 

大塚ムネトの不定期日記